Essay by Maruyama/連載エッセイ

vol.11「飲まない水」
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 内地は水不足で大変なようです。水洗便所で流す水もままならず汲み置いた水を持って便所に入るという。しかしそのまま飲めるような水道の水を汚物流しに使うのはもったいないものです。汚物流しに使うには、皿や茶わんを洗った水でも十分です。こうすれば同じ水を二度使うことになって、倍も楽になる。今年の水不足では皿を洗うために水もないので、紙の皿を使っているという。
 暮らしの知恵として、風呂の残り湯を洗濯に使ったりしているがさらに洗濯の残り水を便所の排水に使えば、同じ水を三倍に利用できることになる。「飲まなくても良い水」を何度も上手に使うことが「飲める水」を大事に使うことにつながることになる。まして飲める水を使って車を洗うなんてことは、実にもったいない。
 近頃は飲み水を何度か利用する方法として『中水』という水が作られている。大きなホテルの洗面や浴室などに使われる水は膨大な量になるため、それを地下などに貯めて浄化して、便所の排水用の水として作られたもので上水と下水の中間の水という意味からこのような呼び方がされている。そういうところの便所では、良心の呵責なく心置きなく水を流せる。
 文化の発展具合は水の消費量を見るとわかるとさえ言われているが、上下水道の完備につれて、ますます一人当たりの水の消費量は増え日本の文化度は高くなった。
 しかし、暮らしの中で飲み水でなくても良い水を使うことが多くなってきたにもかかわらず、使う水全て「飲める水」というのはぜいたく過ぎることなのではないかと思う。
 この未曾有の水飢饉を境に、飲める水のことと一緒に「飲まない水」のことを考えたいものだと思う。

住宅雑誌リプラン・26号より転載
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