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ウードゥ

2009年12月15日 / by:URB / category:

アラブの楽器ウードゥ演奏者常味祐司のコンサートに行きました。レックと呼ばれるシンバルつきのタンバリンの和田啓と共演でした。久しぶりに新しい世界を垣間見ました。アラブ音楽の音階やリズムの違いを知りました。一つ目は、アラブ音楽の音階は、ミが半音低く、シが半音高く感じましたが、ジプシーのロマの音階と同じではないかと思いました。日本の音階も西洋の音階と違っていますが、むしろ、西洋の音階のほうが数学的に無理やり決めた音階で、もっと感性を重視したらアラブの音階やロマの音階や和楽器の音階こそが、情感を素直に伝えるものなのではないか。西洋の音階で無理やり、東洋の情感を表現しているのではないか、音階からやり直すのが良くは無いか。この辺からアナログとデジタルの戦いがあったのだ。誰もが理解しやすいデジタルに向かうが、あるところを超えるところに来るとと誰もが理解できるできるが、デジタルでは表現できず、アナログでしか表現できない世界に入るに違いない。
二つ目は、弦楽器と打楽器の共演です。ヴァイオリン協奏曲とか室内楽とか弦だけの楽曲が多いクラシックに較べて、煽情的な雰囲気を作れる。クラシックが、宮廷音楽、貴族音楽として成立したことが原因で、打楽器の持つ煽情的で人を高揚させ、興奮させ、ついには激しい行動を誘発させることを避けるため、弦だけによる音楽を作ったに違いないと思いました。ローマ時代の戦闘場面で打ち鳴らされる太鼓や、西部劇の騎兵隊のラッパと太鼓の音、どれも人を高揚させ、興奮させ、闘いを挑む意欲が亢進する。同時に、クラシックの弦楽器が摩擦して音を出すのに較べて、ウードゥは撥で音を出す。日本の琵琶や三味線も撥を使うが、撥を使うということで打楽器と同じように強いリズムを作ることができる。打楽器による陶酔は、弦楽器による陶酔に較べて、煽情的であり、積極性が利あり、攻撃的である。民謡を歌うときの手拍子やアラブの音楽の手拍子も不足する打楽器を補充しているのではないか。
三つ目は、ウードゥの音と較べて、琵琶の弦から生み出される音は、単音的であるのは、乾燥した気候の中で惹かれるウードゥの奏でる弦の微妙な音が、日本の高い湿度の中では、その微妙さが表現できず、次第にシンプルな、明瞭な単音を求めるようになったたのではないかと思える。レックの打面も本来はエイの皮を使うが、に本の湿度ですっかり音が変わるというので、プラスチックにしているという。三味線も同じである。湿度などの気候や環境に適した楽器や演奏方法がそれぞれの土地で成熟してきたのに違いない。日本の横笛の鋭い調子は、あの湿った空気の中で鮮烈な音を響かせるためにあるのではないか。また尺八は、かすれた音質で、心に留まりやすい障りを持った音質を持っているのではないか。

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